野々村仁清(にんせい)生誕地

このページでは京焼の祖、野々村仁清の生誕地を紹介しています。


 陶工・野々村仁清(俗名・清右衛門 通称・清兵衛)の生没など、詳しいことはわかっていませんが、江戸時代の初期に丹波国桑田郡野々村庄大野村に生まれたとされています。

 また仁清の生家と伝わる家の前に掲げられた、美山町大野区・仁清をたたえる会作成の案内を読むと、仁清は慶長十八年(1613年)に大野の野々村家に生まれ、寛永元年(1624年)の数え年12歳頃に、大野と同じ篠山領内の立杭(現在の篠山市)へ奉公に出たそうです。そこで過ごした11年間は、「土練り3年、ロクロ7年、並行して窯焚10年とお礼奉公1年」で、彼はそこで蹴ロクロや手びねり、たたら作りなどの技術を磨き、丹波壺を中心に生活用品の作陶の修行を積みました。

 11年の年季が明けると、仁清は京の粟田口に赴き、粟田口焼、信楽焼から唐や高麗物の様々な写しを修行しました。
 さらには、尾張瀬戸で手ロクロでの茶碗、肩衝茶入(かたつきちゃいれ)、ルソン壺の写しの専門的な茶入稽古修行をし、絵薬の開発研究をしたそうです。
 瀬戸から京へ戻った仁清は、仁和寺門跡と宮方の茶匠金森宗和(重近)の知遇を得て、仁和寺門前の御室窯で作陶します。彼はロクロや手びねりの冴えに加え、きれいさびと言われる純日本風の金銀五彩に緑、紫などを加えた色絵陶を完成させ、陶芸作家としての誇りと清水焼の発展の基礎を作りました。

 大野村には野々村姓の家が多く、野々村姓の祖は菅原道真公の庶子慶能法師だと言われています。野々村仁清の生家の近くには、菅原道真公と野々村頼房(慶能)親子を祀る天満宮や慶能塚跡があります。


天満宮(美山町大野)

天満宮(美山町大野)


慶能塚

慶能塚跡(美山町大野)


 野々村家は本家が三家(上庵・中庵・下庵)に分かれ、江戸時代には七軒に分かれます。その七軒は代々養子も含めて概ね「武」「利」「勘」「清」「金」「忠」「辰」などを襲名しています。
 仁清の家は中庵で、屋号伊予(いの)より分家しているようで、概ね「清」を襲名してきました。その家は弘化三年(1846年)に忠七という中興の祖が現れて、今でも屋号となっているそうです。


(伝)野々村仁清生家

野々村仁清の生家と伝わる茅葺屋根の住宅(美山町大野)


 この家の母屋は江戸中期以降に改築され、江戸中期の材料を使った平入りですが、食い違いの間取りや、妻側の広さから、かつては妻入りのであった可能性があるそうです。

 野々村仁清は数え年44歳頃の明暦二年(1656年)に仁和寺宮から「播磨大掾(だいじょう)を受領し、藤原姓と、仁和寺のの1字を下賜されて、仁清(野々村播磨大掾藤原正廣仁清・略して野々村播磨大掾藤正仁清)と号するようになりました。

 仁清はロクロの天才と言われ、仕上げの薄さは絶妙で、神技と称されています。彼は自分の作品に仁清の印を捺し、作品だけでなく芸術家としての自身の価値も高めていきました。

 野々村仁清は元禄七年(1694年)末頃に没したと考えられています。80歳以上の長寿を全うした陶芸家でした。彼の墓所は仁和寺に近い宇多野妙光寺境内にあるそうです。かつて大野の野々村家の菩提寺である蓮乗寺では、仁清が生前に妙光寺境内に逆修の石碑を建立した3月5日を命日として、回向を行っていました。


蓮乗寺
日蓮宗 蓮乗寺(美山町大野)

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野々村仁清生誕地
 住所: 南丹市美山町大野
 管理人が小学生の頃、級友の間で一時切手の収集が流行り、切手に興味を持ったことがあります。その時、キジの絵が書かれた横長の切手に憧れた記憶があります。もちろんその時はその絵が何なのかなど、まったく知り得ませんでした。あれから何十年も経って、切手の絵が仁清の色絵雉香炉(国宝)であることを知りました。

 野々村仁清は茶壺、茶碗、香炉など多くの作品を残しています。数ある代表作の中で、2点が国宝、20点(2012年1月 Wikipedia参照)が重要文化財に指定されています。


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