大山祇神社と盛光寺

このページでは南丹市の大山祇神社と盛光寺を掲載しています。


 (はじめに)大山祇(おおやまづみ)神社は関連サイト口丹波の社にも掲載していますので、内容の重複する個所がございます。ご了承下さい。

 南丹市の南西部の山間部には国指定の名勝瑠璃渓があり、この辺りは昔は大河内村と呼ばれていました。

 谷間を流れる清流沿いに民家が建ち、その民家の集まっている所に大山祇神社と盛光寺があります。

 大山祇神社は天暦三年(949年)に藤原純索によって宰玉山神明谷に熊野三所権現(伊弉諾命)を祀り創建されました。この時の社名は宰玉山神明社で、寿永三年(1184年)までそう呼ばれていました。

 養和元年(1181年)に源頼一が当地に来て、地名を「大タハノ鳥獣ダハ」と改めて、宰玉山神明谷に熊野三所権現と祇園牛頭天王(素戔男命)の二柱を氏神として祀り、元暦元年(1184年)に社殿を建立しました。以降この神社は祭神ノ社または一祭ノ社、あるいは大タハノ社と呼ばれるようになりました。この社が後の開明山・田大社の始まりとなります。源頼一は建久元年(1190年)頃に鳥獣ダハから現在の湯ノ山に移り、村名を湯原村としました。

 その後、楠正末(正成の弟)が湊川の合戦以降の建徳元年(1370年)に当村に逃れ来て、翌二年に村名を大河内村と改めました。楠正末の出身地である河内国が村名の由来のようです。正末は文中三年(1374年)神社の祭神を移し、湯ノ山神社または開明山大社と呼称して産土(うぶすな)神社を建立しました。
 開明山大社の祭神は、熊野三所権現、金峯蔵権現、祇園牛頭天王、豊浦大神(尊恒親王)、河内大神(楠正成)の五柱です。豊浦大神と河内大神は密かに奉納されたと伝わります。

 応永二十六年(1419年)に本殿が再建され、これが現在まで残り、国の重要文化財(建造物)に指定されています。神社はこの時以降は開明山・田大社と呼ばれ、また応永三十三年以降は田大神社と呼ばれました。現在の拝殿(舞殿)は元禄六年(1693年)に建立されたものです。


大山祇神社

大山祇神社 正面


大山祇神社

参道


大山祇神社

手前は手水舎、中央は拝殿


大山祇神社

重文の本殿


大山祇神社

本殿


 明治に入って西園寺公望公が山陰鎮撫使として当村に来られることとなり、社内に蔵した古文書等一切を焼却してしまいました。これは偶像崇拝を廃してご本体を御弊とし、皇道一本とする当時の変革を恐れたためと考えられています。大山祇神社の社名は府庁からの聴取に際して困り果てた末に、適当に答申したものだということです。神社の祭神に大山祇命の名が無いのはそのためです。
 大山祇神社の社名は明治三年に村社に列格された時から呼ばれるようになったもので、江戸時代には祇園さんなどとも呼ばれていました。


大山祇神社
大山祇神社の境内
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 話は戻り、源頼一は湯ノ谷に移住してほどなく寺院も建立しています。寺の名は西明山盛昌寺でした。

 盛昌寺のご本尊は十一面観世音菩薩で、創建年は建久元年(1190年)と言われています。源頼一(大格上人)から数えて三十二世までは天台宗の寺でしたが、寛文七年(1667年)に龍穏寺八世住職の鉄船俊良が当寺を再興して中興の開山となり、これより曹洞宗の禅寺となりました。そして寺号も西方山盛光寺と改められました。


盛光寺

西方山盛光寺は大山祇神社鳥居の隣に建っています


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大山祇神
 住所: 南丹市園部町大河内溝ノ上5
 駐車場有り。
 境内末社は、八幡大神、西宮神社、平岩神社、山神神社
 上記の紹介文の参考資料は「大河内村史録」です。


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